鉋の話 9. 鉋の推す式から引く式への転換について そのⅠ

まえがき
日本の大工が使用している台鉋は周知の如く手前に引いて使用する。今日の日本人にとって不自然でもなんでもないこの使い方は,どうも世界で我国だけの特異な使用法のようである。
 第二次世界大戦後,捕虜となった日本兵達が,兵舎を作るために,米兵の指導官から鉋の使い方の教習を受けた。ところが,その米兵の鉋をかける押す式の姿勢が非常に滑稽に見えたので,皆なで大笑いをしたという。米兵はかんかんに怒ったそうだが,日本人にはとてもあちらの大工道具では仕事ができない。押す式の道具をすべて引く式の道具に改良したが,台鉋に至っては,むこうの竪木を選んで,引く式の台鉋を自分達で作って使用しなければならなかったという話を昔、「室内」というインテリア雑誌で読んだことがある。とかく日本の文化は外国と違った特異なものとして考えられている。その例に鋸と並んで台鉋の使い方の違いがしばしば語られている。確かに鋸もしかりであるが,台鉋も外国と比較してその形の上でも違い過ぎるのである。font>
 台鉋が中国,朝鮮から我国に入って来た頃のものは,両翅の付いた突鉋であったと考えられている。しかしその両翅が取れて,押す式の鉋がいつごろどういう理由で我国特有の引く式の鉋へ変化したかはノコギリ手前に引くのと同様に,これは日本の木工具の使用法の大きな特教であり,その原因の究明は興味あることであるが、現在のところ定かではない。突き式の鉋がをあの戦国時代から,江戸初期にかけての建築ブームの中で急速に改良が加えられ,慶長のころまでには,現在と変わらない形の引く式の台鉋に変ったのではないかというのは分かった。ところで、どうもその過度期を示すものではないかと思われる絵図を絵図大工百態(村松貞次郎監修)のなかに見つけた。font>それが先の川越芳野天神縁起絵巻である。これは五代川越城主の松平伊豆守信綱の寄進と伝えられるもので,台鉋の使用図では最も古いものの一つと言うことであり,江戸時代初め17世紀中ば頃のものである。font>

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この絵図の(中央よりの大工のカンナをかけている姿勢が,一見推しているように見えるのはどういうことであろうか。左ききかもしれないし,あるいは中国式の推す式の鉋の使用法がまだ残っていたのではないかとも考えられる。あるいはこれは考え過ぎかもしれない。)と言われているものである。この絵を良く見ると,姿勢は,あきらかに引く式に近いのであるが,台のにぎり方からして,それは完全に推す式のかけ方なのである。愚然かもしれないが,二人の人物で,ちょうど使い初めと使い終りの姿勢を示しているようである。そうするとこれは左ききなどではなくてその描かれた当時の使用法を忠実に表現しているのではないかと思われる。もしそうであるとすると次のことが推察できる。昔の日本の大工の特教である座式の作業姿勢(これもなぞの一つである)には両翅のついた突ガンナは不向きであったのではないか?事実ヨーロッパ,中国,朝鮮では鉋を立姿勢でしか使用していなく座式の作業姿勢にはおどろくという。つまり推す式では鉋の削り面は短かいし,長材を削るためには体を前に少しづつ移動させながら使用しなければならない。これをそのまま座式の姿勢で使うと,立ったり,座ったり非常にめんどうである。そこでおのずから座ったままの定位置で,できるだけ長い面積を削ろうとする姿勢が生まれたのではないか?このことは私の前稿における“砲のかけ方”の頃で(簡単に表現すれば,右手は主に抱を材料に密着させるために使用され,左手は刃先を材料にくいこませ,手前にかきこむために使用するのである。)とあるように鉋台自身からしてみれば,推す式も引く式も,同じように頭の方から押されていると言える。直すぐの平面を得られる日本の引く式の方がより鉋台を安定して削れるはずである。当時の建築からして,より水平垂直指向する大工達にとって必然的に引く式へ移行していったのではないかと考えられるのである。font>

引く式への過渡期を示す絵図について

 埼玉県川越市の繁華街の北東,いわゆる武蔵野台地最北端の位置に川越城跡がある。その一角に三芳野神社があるが,その境内に権現造り,銅茸の社殿がひっそりと建っている。この杜殿にまつわる物語を描写したのが三方野天神縁起である。川越城主酒井忠勝が寛永元年(1624)幕命によって,三芳神社を再建造営のおり,その創建の物語から遷宮式に至るまでを絵画と文で描写させたものである。文は林道春の撰,書は本阿鉢光鋭、画は勝田沖之丞と伝えている。後の川越城主松平伊豆守信綱が慶安2年(1649)正月に奉納したものである。
 この絵巻物の末巻に大工の作業風景が克明に描かれている。この絵図の中央あたりに二人の大工が鉋を使用しているが,その姿勢が一風変っている。一見すると左ききで使用しているようでもあるし,向って右の大工を見ると鉋を推して使用しているようでもある。昔の大工は左ききが多かったのであろうか,それともわざわざ左ききの大工を選んで描いたのであろうか。注1)よくよくながめて見ると向って左の大工の頭は右の方を向いているのに気が付く。まさに今から削ろうとする方向を向いているようである。右の大工は明らかに削り終わりを示している。もしこの絵が事実を公平に示しているなら.どうも右手で鉋を推しているように見えて来るのである。この絵を描いた画家は鉋の使い方を忠実に描くためにわざわざ二人を選んで,その削り始めと削り終りを描いて,あたかも「このように使用したのだ」と説明しょうとしているかのごとくである。他の大工一人一人を見ても,又大工道具にしても,驚くほど忠実に正確に描かれていることに気がつくのである

 この絵の描かれた寛永から慶安にかけての川越地方は,江戸幕府にとってその背後の穀倉地帯として,軍事的にも経済的にも大切な所として特別の配慮がなされていた。一方建築界では寛永5年(1629)現在の建設省に相当する作事方が成立し,桃山文化の完成期をむかえ,その行政組織が制度化され,その下で多くの大棟梁が建設事業に従事していた。寛永11年には日光東照宮造替の工事がなされ,御大工鈴木長次木原義久,棟梁甲良宗広の下で何10万という大工が全国から参集して,現在に残る日光東照宮をわずか13ヶ月余りで完成させるような時代であった。こういった地理的,社会的、政治的背景からして,この三芳野天神社殿の造営にたずさわった大工達は直接日光の仕事にたずさわった大工達であったかもしれない。おそらく当代一流の大工達であったと見なしても不思議ではない。事実,社毅の棟札には御大工木原義久,そして鈴木,甲良の幕府棟梁の名が連ねてあるというのである。font>

 
 これ等のことから推察して,この絵に描かれている大工の作業姿勢は左ききの特別な削り方でもないし画家の描写のまちがいでもなく,当時の大工が普通に使用していた姿勢を示していると言えるのではないだろうか。飛躍し過ぎかもしれないが,当時の桃山建築はこういった姿勢で使用される台鉋によって作られたのではないかとさえ思えて来るのである。つまり当初の両翅のついた突飽と今日の引く式の台鉋との問に,この絵巻に描かれたような鉋そのものは今日とほとんど変りないが,中間的,過渡期的な使い方の時期があったのではないかと想像するのである。この絵巻物が示す事象は後に述べるように,突鉋の推す式から現在の引く式へ移行する過程をさぐる上で大きなヒントとなるのである。







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